ラーメンがつなぐ富山と久留米。「南京千両」一代記。

時は昭和12年にさかのぼる。九州久留米市には第18師団の兵営が置かれ、たくさんの兵隊さんが街を闊歩していたし、地場産業だったゴム工業が軍需指定を受けて昼夜フル稼働で操業していた。人があふれて活気ある街だったのである。

久留米じゃないけど近所の瀬高、昭和12年

当時久留米で「たぬき屋」なるうどん店を経営していた宮本時男は、横浜中華街で「ラーメン」なるものが若い人を中心に人気を集めていることを知り、修業に出かけてスープ作りを勉強して帰った。

豚骨スープからアクと脂を徹底的にすくい取って、エキス分だけを残すようにして、香り付けに日本人と切っては切れない仲の、醤油を少々たらしこんだ。コクがあるのにスッキリした、どこか異国の気配を漂わせるラーメンは、たちまちオイドンたちを魅了した。

現在の「南京千両」ラーメン

さてうどん店からラーメン屋に商売替えをするのに、屋号をどうするか。ちょうど日華事変の真っ只中で、帝国陸軍は(実態は歴史家に任せるとして)連戦連勝、上海を抜き12月13日には南京へ入城を果たした。史的事実はどうあれ、当時の日本人民は勝利に熱狂したのである。その想いが店名となった。ただし「南京占領」じゃあまりにロコツだから、店の繁盛祈願もあわせて「南京千両」と名づけられた。終戦前後の混乱期を除いて、乏しい材料をやりくりしながら店は経営を続けた。

南京入城に熱狂する新聞

さて昭和22年にまでまた話は飛ぶ。戦後食料難で飢える日本人に対して、将来の有望輸出先の人民にコメ以外の主食を教え込みたかったGHQは、小麦の放出をもって飢餓対策とグレートプレーリーの農民たちへの未来の輸出先保証を行なった。



うどん屋も繁盛したけれど、ここで一気に国民食となったのがラーメンで、飢えた人々は焼跡闇市のラーメン屋台に列をなした。これを工業製品化したら売れる、と直感したのは日清食品創業者の安藤百福で、11年後にそれはチキンラーメンとしてこの世に出て、本当に日本人の食生活を変えてしまった。



話を久留米に戻す。海外とりわけ中国戦線から引き上げてきた人たちは、豚骨などのイノシン酸系の味に慣れ親しんでおり、南京千両は戦前にも増して繁盛した。何かが流行ればすぐに便乗する器用な国民性は戦争でも失われておらず、久留米を中心に豚骨ラーメンは「珍しいもの」でなくて、数多くの店が提供する「日常的なもの」として定着した。

その頃の久留米に一軒の名もなき屋台があり、飯田耕作・照子の夫妻が「南京千両」とは少し違った、よりクリーミーなラーメンを作っていた。ヤカンでとかしたラードを仕上げにタラリと。

富山「南京千両」蛯町店

故郷忘じがたく候。飯田耕作は生まれ故郷の富山が懐かしく(こんな雪深くて冬じゅう青空がない所より、久留米のほうがええのにねえ)、幾千里をこえて戦災復興中の富山へと戻った。屋台は照子の弟3人に譲られた。この3人が「清養軒」「大砲ラーメン」「北九州清養軒」を築き上げる大物語は、またの機会にして。

奇怪なのは、富山へ帰った飯田耕作で、富山では「清養軒」を名乗らず、縁もゆかりもない「南京千両」の屋号を使ったのである。まだ豚骨ラーメンになじみのない土地で、荒野を切り開くにあたって、元祖の名前に言霊を感じたのか、その屋号に深い憧憬があったのか。いちおう「南京千両」には、富山に戻ってラーメン屋やるけど屋号貸してくれんね、とことわってこれも九州的におおらかに「ヨカヨカ」ってことになってはいるらしい。

蛯町店のチャーシューワンタンメン

現在の富山「南京千両」は元町店(本店)と、蛯町店(支店)の2軒があり、飯田耕作・照子の長男次男がそれぞれ継いでいる。2軒で微妙に味が違い、それぞれにファンがいる。私が行ったのは蛯町店で、久留米の南京千両に似ているような違うような。久留米の店で食べたのは20年ちかく前だし、ようわからん。でも強烈に昭和ノスタルジックな味で、富山と九州を結ぶ無形文化財としていつまでも続いてほしいなあ、と思わされるものがございました。

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