天神橋筋商店街で豚玉、自宅で創作パスタ、新宿中村屋の傑作。土用の丑は回転寿司で。 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 8月 17, 2020 これまた一か月前の写真でございます。天神橋筋商店街「ひろ川」のお好み焼き。美女と食べれば味もまた格別ということで7月19日でした。 7月20日にはセロリの葉を使ったパスタを作ってますね。白ワインと薄口醬油で味付けして、油なしのツナ缶入れて。近来まれにみる創作パスタの傑作でございます。 この時期はセロリ料理にハマってまして、セロリと豚バラのオイスターソース炒め。香ばしさがたまりません。 新宿中村屋の「麻婆豆腐の素」で麻婆豆腐を作ってみました。辛さと痺れが半端ないです。これはいいものを発見ですね。ご飯が進んでたまりません。見かけも本物っぽいでしょ。 7月21日、土用の丑の日であります。所用で天満橋の京阪モールに出かけていたので、8Fの大起寿司(回転寿司)で鰻をいただきました。1貫350円であわせて700円なり。それにしてはなかなかのお味でしたね。 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ コメント
二日酔いに劇的効果(個人の感想です)オロナミンC。一年計画で歯医者へ。麺類は続く。 6月 26, 2020 もともと大酒飲みなのに、テレワークの日々はお酒ぐらいしか一日のピリオドがなくて、ついつい飲みすぎてしまいます。アパートの前にオロナミンCを入れてある自販機がありまして、やりすぎちまった翌朝、腰に手を当てながらグイっとやると、結構効くんです。 毎日目の回るほど忙しい、ってわけじゃないのでフレックスタイムをつかって地元の歯医者にも通っています。いちおう1年計画で気になる部分を全部治してしまおうかと。 大阪天満宮は本当に至近距離なので、せっせとお参りしています。街中に住んでいるとこういう広々とした空間がありがたかったりするんですね。 天神橋筋6丁目の金融機関に用事があり、片道2.5キロをてくてくと。いちおう毎日1万歩を目標に、天満界隈をさんさくしています。天六には広島風汁なし担々麵の「揚揚」があって、私の好みは「辛さ3倍しびれ1倍」です。広島のキング軒がなつかしいなあ。 商店街の「繁盛そば」は「ぶっかけ」が名物で、ここも週に1回は行ってますね。しかし同じ町内をうろうろするばかりで、変わらない日常が続くので、サイトの更新が滞って仕方ないですねえ。 続きを読む
牛鮭定食万歳。自宅で吉野家の味を再現。 10月 11, 2011 独身男の強い味方と言えばなんたって吉野家。年中無休で24時間営業は心強いかぎり。自宅から歩いていける範囲に吉野家があるのは独りもん人生のシアワセのひとつであります。 牛丼一筋と言いながら、最近はメニューの多角化をはかっていますねえ。なかでも私のお気に入りと言えばこの「牛鮭サラダ定食」。週に一回は夕食のメニューとなる大定番っす。 海に近く魚が安くてウマい富山県だけど、焼き魚で飯をかっ込める店ってないんだな。家で魚焼くとあとが面倒だし。そういうわけでカラダがDHAとかEPAを欲している時は吉野家なんです。 そして右上方にある「牛皿」部分。これもウマい。焼酎のアテに良さそうな味なんだけど、最近の吉野家はどういうわけか酒類をおいていない。ええねんけどなあ、牛皿と浅漬けで一杯やって締めに卵かけご飯とか。しかしできないことはやむを得ない。家で再現してみるだけのことやん。 大和百貨店の肉売り場で、和牛の切り落としを購入。吉野家の御用達は脂肪分の多い「アメリカ牛ショートリブ」らしいが、そんな稀少部位は普通の肉屋にはないので、ちょっと霜降り気味の切り落とし肉。グラム580円を120グラム購入。 あの吉野家の味を出すには秘訣が少々。まず出汁でタマネギをさっと煮て、ザラメ砂糖・酒・白ワインを入れて、牛肉を投入。火が通ったところでおろしショウガをホンの少しに、醤油を加えて味を調整。日本酒だけでは独特の味にならなくって、辛口の白ワインを加えるのが実は秘訣なんです。 酒のアテにはあまり味が濃くない方がいいから味付けはほどほどに。こいつでビールと焼酎で楽しい晩酌。阪神も勝ったしね。しかし3分の2ほどは残しておいて。 じゃん!翌朝さらに煮つめて味を濃くして、これはまさに吉牛の味、ただし品が良すぎるんやけど。とっても美味しいプチ牛丼の出来上がりだっちゃ。紅ショウガを買っておくことを失念していたことをただただ後悔した、ガッツリ系の朝食でございます。食った分だけ働こうぜ。 続きを読む
ラーメンがつなぐ富山と久留米。「南京千両」一代記。 4月 11, 2012 時は昭和12年にさかのぼる。九州久留米市には第18師団の兵営が置かれ、たくさんの兵隊さんが街を闊歩していたし、地場産業だったゴム工業が軍需指定を受けて昼夜フル稼働で操業していた。人があふれて活気ある街だったのである。 久留米じゃないけど近所の瀬高、昭和12年 当時久留米で「たぬき屋」なるうどん店を経営していた宮本時男は、横浜中華街で「ラーメン」なるものが若い人を中心に人気を集めていることを知り、修業に出かけてスープ作りを勉強して帰った。 豚骨スープからアクと脂を徹底的にすくい取って、エキス分だけを残すようにして、香り付けに日本人と切っては切れない仲の、醤油を少々たらしこんだ。コクがあるのにスッキリした、どこか異国の気配を漂わせるラーメンは、たちまちオイドンたちを魅了した。 現在の「南京千両」ラーメン さてうどん店からラーメン屋に商売替えをするのに、屋号をどうするか。ちょうど日華事変の真っ只中で、帝国陸軍は(実態は歴史家に任せるとして)連戦連勝、上海を抜き12月13日には南京へ入城を果たした。史的事実はどうあれ、当時の日本人民は勝利に熱狂したのである。その想いが店名となった。ただし「南京占領」じゃあまりにロコツだから、店の繁盛祈願もあわせて「南京千両」と名づけられた。終戦前後の混乱期を除いて、乏しい材料をやりくりしながら店は経営を続けた。 南京入城に熱狂する新聞 さて昭和22年にまでまた話は飛ぶ。戦後食料難で飢える日本人に対して、将来の有望輸出先の人民にコメ以外の主食を教え込みたかったGHQは、小麦の放出をもって飢餓対策とグレートプレーリーの農民たちへの未来の輸出先保証を行なった。 うどん屋も繁盛したけれど、ここで一気に国民食となったのがラーメンで、飢えた人々は焼跡闇市のラーメン屋台に列をなした。これを工業製品化したら売れる、と直感したのは日清食品創業者の安藤百福で、11年後にそれはチキンラーメンとしてこの世に出て、本当に日本人の食生活を変えてしまった。 話を久留米に戻す。海外とりわけ中国戦線から引き上げてきた人たちは、豚骨などのイノシン酸系の味に慣れ親しんでおり、南京千両は戦前にも増して繁盛した。何かが流行ればすぐに便乗する器用な国民性は戦争でも失われておら 続きを読む
コメント
コメントを投稿