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1月, 2010の投稿を表示しています

昔の作文

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パソコンの中を整理していたら、数年前に書いていた駄文が残っていた。 あくまでフィクションです。事実に似ていてもそれは偶然の一致ということで・・  食物連鎖  哲人テオフラトスの名著「人さまざま」を引くまでもなく、人間と言うやつは本当に統一性がない。食に関してもそうだ。 後輩の甘木君は同じものを際限なく食べることを無上の喜びとしている。炒飯をバケツに一杯とか、カレーの大盛りを三杯とか。黙々と摂取する姿には、仏教画で見る「餓鬼」を彷彿させるものがある。小顔でぽこんと腹が突き出ているところも似ている。いわゆる珍味とか佳肴には縁のない男で、接遇費がかからないのが良いところだ。甘木君の父君は誰でも知っている大企業の会長をしている。 さらにもうひとりの後輩、垂逸君は違うものを次々と平らげること出色である。焼肉店に行ったりすると躁狂状態を呈する。まあざっとメニューブックのほとんどを平らげてしまう。和食割烹でも同様。しかしながらラーメン屋やカレー屋ではからきし元気がない。 おまけに品数をそろえても、まずいものには手を出さない。勝手な男である。ちなみにこいつの父親は元アスリートで、あまりに有名なのでプロフィールを匂わせることも危険である。  社長の息子でもなく大アスリートのセガレでもないが、板前職人にして料亭経営者の孫たる僕もどうやら変わった食性の持ち主であるらしい。なお、利己的遺伝子と食性の関係についてはR・ドーキンス博士の更なる研究を待たねばなるまい。  僕の場合は「連続する食欲」の持ち主であって、気に入ったメニューがあれば飽きるまで連食してしまうのである。四半世紀ほども昔のことながら、就職活動の時期に会社訪問を繰り返しながら三十四日間昼食にカレーを食べ続けたことがあった。 ふとしたはずみで淀屋橋の喫茶店MJBにてカレーを頼んだのがきっかけで、やっぱり夏はカレーだなあと納得しながら翌日、翌々日、一週間と繰り返してしまった。二週間目くらいからは、昼時になると無意識のうちにカレーと対面している自分を見つけるようになった。さらに一月がたとうとする頃、自分がカレーのスプーンを掴むのではなく、スプーンのほうが自分を掴みにかかっている錯覚を覚えてしまった。 その後、稲荷寿司・吉野家の牛丼・天下一品のラーメン・駅前第一ビルB1のスタンド天丼など、

お天気屋なんですって。

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月曜の仕事にかこつけて帰阪していた。 おまけに日曜日は晴天の三田ゴルフクラブでプレーを楽しんでおりました。多分三月の下旬までは雪でゴルフ場がクローズになっている、富山県民の皆さんに申し訳ない気持ちをいだきながら。 その罰があたったんでしょうね。50センチもないパーパットを2回もはずしてしまい、一打差でライバルに敗北した。くやしいような、ほっとするような、不可思議な感情でありました。 写真はアウト2番のショートホール。打ち上げ185ヤードは厳しい。正面のバンカーを避けるつもりで左サイドに打ち出したティーショットは、不要なくわだてが災いしてクラブヘッドの先端に当たってしまい、見事に打ち損ないのミスショットに。ふらふらと力なく舞い上がった打球は手前の池にボチャリと落下して水紋をえがきOBとなった。アウトを52、インを53でまわって、まあハンディキャップ29にふさわしい実力なりのラウンドでありました。 ゴルフの面白さは、肉体を鍛えるだけでは上達せず、メンタル面の自己管理ができていないとスコアアップにつながらないところにある。一打の失敗でめげていてはいけないのであって、競技相手だって18ホールすべてが順風満帆というわけにはいかない(筈である)。多少の失敗があっても自分を信じて冷静にプレーしていればどこかに勝機がやってくる。それを待って、堅忍自重するのである。その間の精神的駆け引きに見事なまでに性格があらわれる。 友人どもに言わせると、私はちょっとしたミスが簡単に表情に出るし極端に口数が減少するらしい。本人は同伴プレーヤーに不愉快な思いをさせないためにも、つねに陽気に振舞っているつもりなのではあるけれど、第三者に言わせるととんでもないお天気屋のようである。たまにナイスショットを放つと、鼻翼のあたりに「得意じわ」が発生して、いくら口で謙虚なことを言っていても、表情が「見たか諸君。まいったか諸君」とうごめいているそうな。 ほどなく50の歳を重ねるにしては、まったくに未熟なことで恥ずかしいと言ったらありゃしない。 やはり修行を重ねなくては。それには実戦あるのみと、またまたラウンドの機会を狙っている自分がいる。ほんとに面白いゲームだとおもう。いったい誰が発明したのやら。 今朝の立山。絶景かな。しかし。 早く雪が溶けないかな。越中には諸国に誇るべき

フウマ先生

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アマゾンは本当に便利。 2010年が明けてから、布団乾燥機・セーター1着・書籍8冊・近刊書の予約申し込み2冊・外付けHDD1基・アミノカルピス1ケース。しめて2万5千円ほどが口座から消えていったことになる。 越中の地では、大型家電販売店や服の量販店へ赴くにはどうしてもクルマが必要となる。営業廻りの合間をついて、ちょっと途中下車できればいいけれどゆっくり比較検討する時間が無いから、あわてて購入することに伴うミスも多い。店頭でちょうどいいと思って瞬殺技で購入したローテーブルは大きすぎたし、トレーナーは小さすぎて窮屈だ。 その点、アマゾンなら比較対照にいくら時間をかけてもかまわないし、価格的統制も価格comで調べれば問題ない。書籍だって、古本でよければおおむね1円から在庫がある。発送料もプレミア会員になれば、年間いくつ発注しても無料でしかも翌日に必ず届く。 ぞっとするほど正確な商取引。公正にして且つ明大。 貴重な交通手段、市電環状線 買い物はなんといっても店頭。なじみの店員と情報交換の名を借りた駆け引きを楽しんで、単に値引きをねらうだけでなく、こちらの好みやセンスを知ってもらう。店員もプロだから、客が自分のご面相や体形も認識せずに、いけ図々しいことをほざいていても絶妙にもちあげて、しかし最低限相応しいものをすすめておく。サカナ一尾買うにも、スーツ1着つくるにも、そんなやりとりがあって、やっぱり買い物はたのしいんだけど。 金沢名物 近江町市場。楽しい。 1972年、フウマ先生は日本じゅうにさびしさがひろがっていると述べられた。 わたしは、札幌五輪の日の丸飛行隊に熱狂する、坊主頭の中学生であった。 爾後さらに38年。この寂寥感の横溢を、フウマ先生ならどう評してくれるのだろう。

さくらんぼのお酒

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ひとりが好きなのひとりっこ ほんとは嘘なの甘えっ子 浅田美代子のこの唄を聞くと、太宰治をおもいだしてしまう。孤独になりたい嫌人症と津軽人らしい深すぎる人情のはざまで、精神を不純にアウフヘーベンしたあげくに、自己憐憫と唯我独尊の権化となり人生をまったく無駄に昇華させてしまった、オトナの身体に宿した駄々っ子を。 享年40で早世した未熟児は、愛人と入水してしかもその後数日を経て、自らの40歳の誕生日に遺体を発見されるという離れ業をやってのけている。自死の直前に誌した短編「桜桃」から、その命日を「桜桃忌」となす。 入水の翌年、井伏鱒二・佐藤春夫・壇一雄らが、三鷹の旧居あたりでちょうど季節のさくらんぼをつまみながら一献を傾けて故人を偲んだことで、同時代の作家今官一が桜桃忌と名づけたという。 でもまあ、甘いようなすっぱいような、歯ごたえはあるけど実質がない、でも捨てきれないサムシングがある彼の作風にまこと相応しい命日碑ではないか。 ちなみに桜桃忌は亀井勝一郎が幹事役として昭和38年まで運営された。自己陶酔型の作家に囲まれながら15年にわたって幹事を黙々と続けてきたあたり、自らの足元を見る他人の視線に対して敏感な人間でないと難しい立ち位置であったかもしれない。そのあとを太宰治賞なる文学賞にたてまつって商業主義に振舞おうとしたくせに、経営自体が破綻した出版社の話はよそう。 東京銀座のバー「ルパン」へ行くと、カウンターの左隅に、モノクロの写真が飾られているはずである。面長で白皙で目線がいささかうつろな青年が、スツールに片膝たててカウンターに凭れようとしているような、胡坐をかこうとしているような。三つ揃えの背広を思い切り着崩しているけれど、下品には見えない。足元は短靴ではなくて、今で言うトレッキングシューズのようでもある。きっと払い下げの軍靴に相違ない。 このとき、写真家の林忠彦は同席していた織田作之助を撮影するつもりが、泥酔した太宰が「オレも撮れよ、林」と言って聞かないのでやむなく撮影したらしい。しかしこの豪磊不羈なる写真が林忠彦の代表作となってしまった。無邪気に勝てる邪気はないのである。 キルシュワッサーなる酒がある。さくらんぼを発酵させて醸造し、さらに蒸留する。ハードリカーなのでドライであるだけでなく、原材料のせつなさを伴う素性をほのかに漂わせ

なんでカレーが郷愁か。

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ああカレー。この世にこれくらい好きなものはあまりない。生まれたときに銀のカレースプーンをくわえて産道をくぐり抜けて来るといわれる大阪人の私として、故郷を離れて数ヶ月、カレーへの望郷の念がたかまるばかりなのである。 なにしろ1929年にターミナルデパートとしてオープンした阪急百貨店は、当時25銭でカレーを供して(20銭という説もある)客を呼んだらしいし、それで蝗集した大阪人もDNA的にカレー好きであったのでしょう。多い日は牛10頭分の肉を消費したそうであります。 昭和11年の阪急百貨店 国民食といわれるほどであるからして、越中にもカレーが無いわけではない。でも、この地でで食したことがあるものといえば、〇〇会館の生ぬるいポークカレーだったり、会社の隣にある某ホテルのコーヒーコーナーで供される業務用カレーの温めなおしだったり。安定はあるものの、そこにポリシーもアイデンティティも感じられない。残念である。 もちろん、全世界あまねくユビキダス的に存在するインド人が経営する「カリー」を食べさせる店は当然この越中にも存在する。駅近くの「サントシ」あたり、かつて暮らした神戸でも珍しいほどの本格的なインド風味で、よくまあこんな店がこんな所へと思うほどである。中山手の名店「デリー」にも負けない品質だと個人的には思っている。 しかしだな。私が食べたいのは、インド風でもなく欧州風でもなく、日本人がそれなりに解釈してつくりだしたきっちりとスパイシーでありながらどこかに「洋食」のハイカラさを残すカレーなのである。 ちなみに隣県金沢においてカレーは完全に労働食である。「ゴーゴーカレー」「チャンピオンカレー」の2大チェーンはいまや首都圏にまで店をひろげている。とにかくハラの減っている人間に、満足を勝ち得るほどの品質と、品質を超える絶対価値としてのボリュームを保証する。「量」こそはあまねく不変的な価値であって、エリア外に脱出する際に営業的担保力を遺憾なく発揮する。 この巨大カツの下に大振りの茶碗一膳分ほどのご飯が隠れていて、「ヘルシー」と呼称される。開店から17時55分までは600円。そのうえには「エコノミー」「ビジネス」があり最上級の「ファースト」はおそらく米飯2合ほどになる。昨日金沢に訪れた際にはそのあとの仕事をおもんばかって「ヘルシー」にとどめたのだけ

小さき結界。

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越中の地は住宅事情が恵まれており、大阪時代に2DKに居住していた夫子も金殿玉楼3LDKなぞにお住まいなのである。震度7くらいの地震が到来したら書籍の下敷きになりかねない状況から、とりあえず書籍を一箇所に集約して生活スペースから切り離すことができたわけで。 その書庫に75センチ四方のテーブルを持ち込んで、PC関係をまとめている。越中通信録の発信基地なのである。私にとっては小さき結界で、この1メートル平米に満たない面積から、ネットを通じて世界中どこへでも繋がっていくことができる。伴天連の魔法もかくやと覚わるる。 この狭い結界に、msi製ネットブックU100とマウスにデジカメ、タバコに灰皿。エアコンのリモコンに参考書籍、温度差に弱くてしょっちゅうクシャミ鼻水に襲われるためティッシュ。新聞雑誌切りぬき用のハサミ、デジカメの充電器、老眼鏡ケースも鎮座ましましている。忘れたらあかん、ハイボールのグラス。それと最近ご愛用の池田模範堂謹製「ヒビケア軟膏」。掃除洗濯に自炊をこなす独身中年は手荒れと仲良しこよしなんで、指先にヒビ、第一関節にアカギレなど発生しているから、この商品が手放せないのであります。富山県が誇っていい県内生産品。 でっかくある白いキーボードは本日ヤマダ電気で購入した。おっさんの太く短い指先でこのちっこいネットブックのキーボードを叩くとミスタッチが多くてけっこうなストレスだったので。 営業廻りをしていると、ぽっかりと時間があくことがまま発生する。今日は高岡で後発部隊を待つ間に15分ほどの時間が発生した。目の前にはヤマダ電気。「機会は最大限に生かす。それが私の主義だ」というわけで、同僚に懇願して自由時間を頂戴し、キーボードとUSB増設ポートを購入した。あわせて3000円ほど。一昔前なら3万円だぜ。次の給料が出たら外付けHDDを買おう。 結界は充実し、おっさんの「お砂場」はひろがっていく。時間と空間を越えて。ネットの世界は精神と視野を有史以来初めての規模で自由にしてくれる。でもその代償に、おっさんは結界に繋がれてひきこもりへと沈降するのかもしれない。 でも、おっさんには風邪が完治さえすれば出かけていくべき酒場があるのです。ありがたや。

凱風快晴。されど。

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昨日今日と雪がやんでいる。昨日に至っては快晴に限りなく近いものがあった。岩瀬のほうまで出かけて海越えの立山連山を眺めたい衝動にも駆られてけれど、風邪で発熱していたので断念した。今月一杯はさすがに年始挨拶やら賀詞交換会、さらに新年宴会などで、鈍劣小生のごとき窓際サラリーマンでもそれなりに忙しいのである。少人数の営業所で、一人が寝込んでしまうといろいろと面倒なので、向こう半月はちょいと健康に気遣わねばならない。 しかし2月以降は今のところまったくにヒマなので、せいぜい帰阪してゴルフに専念するか夜毎に桜木町を賑わかせることぐらいしかやることがない。北越雪譜の口語訳でもボランティアでやってみるか。それとも、アマゾンで取り寄せた「日本文学秀作選」も手付けずになっているからせっせと読みにかかるか。 まあ、あまりナメたようなことを言っていると、えてして突然の事故渋滞みたいな出来事に遭遇してしまい結局大忙しなんてことになりかねないからね。くわばらくわばら。平穏が一番。 写真は16日にスーパー「ピアゴ」へ買い物に行く途中、西町の交差点で撮ったもの。雨上がりとか雪上がりとか、なぜか山が近くに見えるから不思議である。42万都市のどまんなかから3000メートル級の連山を拝めるのはさすがに富山市だけだろう。 雪が降っている最中はもちろん面倒ごとが多いが(スカパーのアンテナに積雪すると画面が乱れるので除雪しなければならない)、晴れてのちも結構大変である。 これは富山駅方面にむかう歩道。画面では質感が伝わりにくいが、完璧に凍結している。スノートレッキングシューズをはいていても、ツルリと底がすべっているのがわかる。バランスをとりながら静々とへっぴり腰で渡らなければならない。たった3メートルに苦労するのである。そんな私のすがたは、雪国でさえなければ、重大な痔疾を抱えているようにしか見えまい。 駅前のこの横断歩道も剣呑である。わずか片足幅だけが踏み固められており、もちろん凍結している。凍結の先には10センチほどの溶けかけたかき氷のような水溜りがある。すべる足場に気をつけながらエイヤとばかりに水溜りをまたぎこさなければならない。 雪がやんだからといって安心してはならないのである。まだまだ市内には危険箇所が沢山残されている。停戦と終戦は違うということだ。現実に

寒中食養

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能登の寒牡蠣は身は小さいけれど、よく締まっていて美味である。本日の富山など昼間の気温が摂氏1℃で、おおむね零下のきびしさであった。かような玄冬の夜はその海の果実を用いた滋養あふれる小鍋立てに限るのである。 吾人はまず出汁をとらねばならない。昆布と雑節で牡蠣の旨味に負けない強い出汁を作成する。それにかまけるざっと20分の時間で鍋の仕度をこなす。 海水ほどの塩分にした微温湯で牡蠣の身をやさしく洗って汚れを取り払う。長ねぎは3センチほどのブツ切りに。豆腐一丁も適宜切り分けておく。 出汁に赤だし用の味噌をかなり濃い目に溶く。みりんと薄口醤油で味加減をする。 あとはカセットコンロに土鍋を設置して、出汁をあたため、葱豆腐を煮込んでいくのである。おりおりに牡蠣を投入して、火の通りに気をつけながら引き上げて、七味でもふってやれば、これはもう絶対にトレビヤンである。   富山名物の昆布巻き蒲鉾をわさび醤油でビールの友とし、鍋が煮えたところで銘酒立山に切り替える。七尾湾の滋味は出汁と赤味噌に翻弄されながらも、素性を失うことなく旨味のアマルガムを結晶させる。立山の腰の強さが美味の複合に負けることなく一層に引き立てる。淡にして薄ならず、肥にして厚ならず。            まあ本人がウマいウマいと賞玩しているのだから、客観評価はたれかゲストが来たときにでも下していただくことにしよう。しかし、材料さえあれば号砲一発から30分ほどで仕上がるので、吾人のごとき独居中年にはもってこいの滋味となったのである。 この冬の幾晩かをこうして、地場の営養で過ごすことができるならば。

反省はいつもささやかに。

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江戸明和の頃の人、鈴木牧之は越後湯沢の商人にして万能の文芸人であった。和漢の典籍に通じるだけでなく、書画をよくし俳諧を好んだ。商売が質屋と越後縮であったことからしばしば江戸に赴き、山東京伝・曲亭馬琴・式亭三馬・蜀山人など名だたる文人と交わりを結んでいた。 牧之が世に残した著作としては「北越雪譜」が知られる。雪深き越後魚沼の地を「寒国」として、その民俗や天変の不可思議を、冷静かつ分析的に叙した文章と絵画は、200年も昔に雪国の人々が暮らすさまを考現学的に著していて貴重である。 文は博識強覧を誇り、描写は具体性を重んじ、挿画の細かさは今和次郎もかくやと思われるほどに精密をきわめる。肉眼で分類表記した雪の結晶の数々などファナティックなまでの情熱を感じてしまう。けれど衒学的なものでは決してなく、俳諧をよくした人らしい奇をてらわないユーモアが散見して知性のゆとりを響かせている。(もっとも挿画や冗長気味の文章ははのちに山東京伝の息子京水が手を入れたとされているけれど)                         「雪の深浅」 左伝に隠公8年平地尺に盈るを大雪と見えたるは其国暖地なれば也。唐の韓愈が雪を豊年の嘉瑞といひしも暖国の論也。されど唐土にも寒国は8月雪降ること五雑組に見えたり。暖国の雪一尺以下ならば山川村里立地(たちどころ)に銀世界をなし、雪の飄々煽々たるを観て花に論え(たとえ)玉に比べ、勝望美景を愛し、酒食音律の楽を添へ、画に写し詞につらねて称翫するは和漢古今の通例なれども、是雪の浅き国の楽み也。我越後のごとく年毎に幾丈の雪を視ば何の楽き事かあらん。雪の為に力を尽くし財を費やし千辛万苦する事、下に説く所を視ておもひはかるべし。 浅学ながら口語訳してみたい。 「雪の深いの浅いの」 孔子が書いた歴史書「左伝」によるならば、魯の隠公が治世して8年目に魯では平地で24センチの雪が積もったことを大雪と言っている。そこが「暖国」だからそんなことで騒ぐのだ。 唐の韓愈(唐宋八家の名文家)は雪が降ると(翌年は)豊作になるきざしだなどと言っておるが、これも「暖国」の論理である。ただ中国にも8月に雪が降るところがあると明代に謝在杭の書いた随筆「五雑組」には著されている。 「暖国」の雪が一尺(約30センチ)ほどでも積もってしまえば、山川・村里を問わず

まいど変わらず

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古諺に偽りあり。   「雪にかわりがあるじゃなし~とけて流れりゃみなおなじ」 越中に降る雪には大きく分けてふたつのタイプがあって、降りかた・積もりかた・溶けかたまで全く異なる。ほとんどは日本海側特有の「ぼたん雪」で、積雪温度が低くぼってりと重い。路肩に積み上げられると固形化して根雪になるし、路上で半溶解するとシャーベット状になってブーツを履いていても滑りやすく危険である。 もうひとつは北海道のようなパウダースノーで、これはアラレのような積雪から始まる。猛烈な勢いでアラレ状の雪が吹き荒れると、国道のような広く融雪装置が働いているような道でも、見る間に白くなっていく。降り積もるといわゆる「新雪」となる。ブーツで踏んでいくと靴底からキュッキュッと音がして、踏み固められているのがわかる。靴底のトレッドが効いている証拠である。この雪は何十センチかなあ。

帰阪そして帰富

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東京から戻った翌日、関西へと向かった。月曜に仕事があったので一足先に戻ってゴルフでもしようかという魂胆である。 さらに、こればかりは大阪へ帰らないと味わうことのできない、コナモン各種(たこ焼き・お好み焼き・豚平焼き・ソース焼きそばエトセトラ)を楽しんだ。やはり本場である。東京も含めて異郷の地で食するとどうも雰囲気とか、勢いが違うのである。味付けに大きな差があるわけではないけれど。 また、だし加減がこれしか有り得へん刻みうどんも堪能した。金色の澄んだ出し汁には固い白葱でなく、緑鮮やかな青葱の削ぎ切りが大量にのっていてそれが全体に品のいい甘みを加えている。絶妙というしかない。おまけにどれもこれも安いし。ただしいずれも、大阪人のソウルフードだから身びいきになっていることには平にご容赦を。 晴天の三田ゴルフクラブでは、前半立ち上がり3ホールで25打を重ねる、乱調のスタートながらパットが面白いくらい決まってなんとか56であがり、後半はさらに立ち直って48でまとめることができた。汗ばむような陽気で、列島のオモテとウラでこうも違うかと思ったし、なんだか後ろめたいような気分にもなったことも素直に白状しよう。 同伴プレーヤーの何樫君は、発見と開眼が時には毎ホールのように訪れる天才であり、ゴルフに対して真摯に取り組む努力の人でもある。ティーグラウンドに立つたびに「これや!忘れとった」とか「そうや、ここんとこに気がつかへんかった」などと自己分析と発見を繰り返す。そして入念にスイングチェックを実施する。だがナイスショットが飛び出すのは、おおむね彼が静かにかつ素早い身のこなしからスイングを開始するときである。この日は三田に静寂が訪れており、私は8枚のハンデをいただきながら完敗したのである。古人に曰く「沈黙は金なり」。 堀川神社の終いえびすにも出かけていき、この一年の商売繁盛を祈った。皆様にも福が舞い降りますように。堀川神社へ行く道すがら、10月まで住んでいたアパートの玄関先を通った。ほんの数ヶ月前まで、積雪消えぬ越中の地に住もうとは想像だにつかなかったけれど、現実にいま住民票を置いているのは富山市である。 あすはひさしぶりに大喜で富山ブラックでもいただこうかな、と少しの感慨をもちながらサンダーバードに乗車した。

赤富士

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都心のホテルで高層階に泊まっていると、見下ろす夜景がみごとである。ビーズ細工を解き放って床上に放り出したごとき、もったいないような光景なんである。だ仕事の出張でカメラ用の三脚など持ち歩くわけにいかないので、スローシャッターでの夜景撮影は困難を伴う。まして新橋銀座六本木と駆け回ったあとでは5秒間も微動だにせずカメラを固定するなどとんでもない。 というわけで、のんびりと風呂に浸かって熟睡したのでした。たぶん零時半ころ。     早起きは三文の得とはよく言ったもので、午前6時頃さわやかに目覚めてカーテンをあけるとごらんのような景色であった。じっさいには朝日を受けた富士山はもっと色づいていて「赤富士」とはこれを指すのかと思ったほど。 宿泊した「セレスティンホテル」は、カードキーがないとエレベーターにも乗れないセキュリティの高さと、和洋のしっかりとした朝食ビュッフェがなかなかによかった。 仕事を終えて、取引先と(とある百貨店の方々)日比谷のバーで一杯やってから帰富した。     「Maxとき」@東京駅である。左端に見えるのは秋田新幹線「こまち」の後端部。大阪勤務時代は多いときは毎週のように東京へ出張していた。東海道新幹線のホームに立ちながら、「向こう側」の緑とアイボリーに塗り分けられた車両を見て、みちのくへ・越後上越越中路への旅情にさそわれたものだった。 ホーム下のコンコースで、通りなれた青と白に塗られた東海道山陽新幹線窓口でなく、東北上越長野新幹線側に進んでいくとき、自分が「向こう側」の人間になったことを肌で認識した。ビジネスではなく旅情で憧れていた路線に、スーツ姿で搭乗し鄙へ向かって帰っていく。              国境(くにざかい)の長いトンネルをぬけるとそこは雪国であった。夜の底が白くなった。

首都逍遥

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久しぶりに上京している。 富山から東京は、時間的には大阪より若干近い。特急「はくたか」と上越新幹線を乗り継ぐと、3時間10分ほどで東京駅へ着く。飛行機なら一時間だが、鉄分が豊富な私が未乗車路線に乗れる機会をのがすわけがない。 「チャンスは最大限に生かす。それがわたしの主義だ」 荒波押し寄せる日本海もいい眺めだったし、六日市から越後湯沢にかけての大雪もまた、富山立山と違う迫力で、人をして圧倒するものがあった。そういえば1月2日に富山へ戻るに、越前福井を通過して越中に至った。そのわずか5日後に今度は越中から越後へと廻りったのだから、一週間のうちに越前・越中・越後と越のみちをたどったことになる。 いずこも雪であった。時に大雪となりひと晩ふた晩と吹き荒れる。 越路吹雪とは単なる語呂合わせでなくて、正岡子規が主張するところの「写生」に他ならないと納得したしだいである。 本日の仕事も終了したので、これから有楽町のガード下に出撃し、モツ煮込みと焼酎のお湯割りでハッピーになる予定である。そのあとは、銀座の裏通りにあるちょいとすてきなバー(いやスナックかな)でハイボールを傾けたい。余力があれば六本木まで足を伸ばしたいけれど。

贅六、興奮す。

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胸騒ぎがするのである。 大雪と聞くと、太平洋側出身で普段は雪など一晩で消えてしまうような温暖の地からやって来たこともあって、当地の皆様には申し訳ないのだけど、火事場見物のような気分で積雪を期待してしまう。お許しくださいとしか言いようがない。               これは今朝起きぬけのベランダからの風景である。ここまでの積雪なら年末にも体験済みなので別に驚くには価しない。ただ、今日は休日だという条件が付加されている。 大雪の本場を見に行こうと思ったのである。とりあえず山のほう行けば、メートル級の雪が見られるんじゃないかとあさはかにも判断したのだった。ネットで調べると富山地方鉄道の立山線は通常運行しているではないか。ちょいとした強風で一時間も遅れる元国営企業とはえらい違いではないか。民間企業の底力やいかに。 これが雪に包まれた立山駅。13時17分定時に出発した地鉄富山駅発立山行き普通列車は、1メートルを越そうかという積雪の中、何ともなげに定時に到着したのである。乗車したモハ10030系はかつて京阪電車で特急車両として使われていた。貫通部にテレビを設置して「京阪テレビカー」とよばれていた名物車両のセカンドライフである。 富山地鉄は、モハ14760系なる鉄道部門の日本レコード大賞にあたるローレル賞をもらった、山岳鉄道ならではの優良車両も自主開発しているが、他社車両の再生も巧みとされる。西武鉄道で一世を風靡した5000系特急車両、通称「レッドアロー」も宇奈月温泉や立山行きの特急や普通列車として元気に第二の人生を送っている。 ちなみに、西武がレッドアローを地鉄に売り渡すに当たっては結構なイジワルがあったようで、近江商人の利益至上主義なのか、あまりいい話とは思えない。 余談はよしとして、雪自体が珍しい贅六にとって本日の雪景はまことに見事なものであった。 立山駅に到着したら、年中無休と称している蕎麦屋に出向き、風景をアペタイザーにしてそれこそ銘酒立山を傾けつつ、おろし蕎麦で一杯と念じていたわけながら。いざ、駅についてみると周辺の飲食店はもとより駅の食堂売店待合室まですべてクローズになっていたのである。やむなく、次の列車が出発するまでの数十分を散策と写真撮影に当てざるを得なかった。                   

2010年1月1日

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仮に2月28日が3月1日に変わったところで大きな変化があるわけではないのに、どういうわけか12月31日から1月1日に日暦がめくられただけで周辺がおめでたくなってしまう。新年とは不可思議な呪術性を持つものである。 あけましておめでとうございます。 DPZ(ニフティ主催の傑作ポータルサイト)に掲げられたセリフ、 「ひねくれすぎて素直」 じゃないけれど。 私の実家は兵庫県の川西市で、まあ東京で言えば三鷹ぐらいの郊外型ベッドタウンなのだけれど、地元には清和源氏由来の多田神社なる正一位ランクのお社があるので、片道2キロを遠しとせずに今年も参拝した。家内安全と商売繁盛は例年のとおりではあるものの、今年はかてて加えてこのしょうもないサイトにおいでになる方々のご多幸を、武家の神社に相応しいように「神馬」にかけて祈願をおこなった。今日以後しばらく、ここを覗かれた皆様には源平藤橘のうち、源氏の神様から特別のご加護があると思し召されたい。         大阪市内からでは電車を乗り継いで1時間もかかろうかという田舎なのだが、参拝するのに15分くらい並ぶハメとなった。見れば2拍手2礼で真面目に祈願しておられる方の多いこと。 体感的には例年より参拝者が多いような気がした。神仏に祈らねばならないような厳しい状況の人たちが増えたのだろう。 帰途、街道沿いのイズミヤへ行き、テナントのチヨダ靴店で防水加工されたトレッキングシューズを購入した。価7170円なり。                      馬鹿の大足、という古諺あり。27センチEEEはたぶんその分類に入るとおもう。百貨店などで通勤用の革靴を購入するときも、こいつはいいデザインだと手にとってみる。店員が寄ってきて「いかがですか、お試しになりますか。サイズはどのくらいですか」などと聞く。「あの。27センチから28センチあるんですが」と小声でつぶやく。おおむね聞き返されるので今度は他の客に聞こえるほどの声で「27から28ッ」とdeclearすると、私の身長とのギャップになんじゃその異形の主はといわんばかりの無遠慮な視線が刺さってくる。 そうだろうなあ。28センチなんてね。プロレスラーの桜庭和志と一緒だもんな。身長170センチのいまどきじゃ小男とはつながらんでしょう。 それだけならばまだいい