ほんまに仕事してるんかいな?寄り道の達人。

富山市内中心部からざっと15キロ、舟橋村を抜けて立山のふもと上市町まで行って来た。物見遊山ではありませぬ。お得意先への営業である。たまには仕事もするんである。ただ仕事であってもそこに何らかのお楽しみがないとモチベーションがあがらんので、営業先の近所になんかオモロイものはないかといつも神経を働かせることにしているのだ。



路肩にこんなフォトジェニックな食堂が。

昭和30年代~50年代の看板や雑貨のコレクションで埋もれた「日本海食堂」は、一見するとすでに廃業済み、って感じがするけれど。



中はきちんと営業している。


店内は結構な入り具合で、近所の樹脂メーカー社員が8割くらいを占めていた。ちなみに反射して見えづらいけど、コーラのポスターに写っているのは若き日の松山千春である。昭和55年ころの写真なので、鬱陶しいほど髪も生えているし細面で優男である。面貌がいかに歳月に対して無力であるかを思い知らされる。



店頭に展示されているこのパトカーは、2代目日産ブルーバードである。これでも一応ピニンファリーナのデザインで、水冷4気筒OHV998CCのエンジンを積んでいる。三角窓が懐かしい。製造は1963年~67年。私が保育園に入ったり小学校に入学したりと、世間との接触を拡大しはじめたころに活躍していたクルマである。ルパン三世「カリオストロの城」では銭形警部が乗りまわしていたので一部では「銭ブル」と言われるらしい。




ひとが食事している所でフラッシュをたくほど無定見ではないので、シャッタースピードが遅くなってしまい手ぶれしてしまいました。べつにアル中で手が震えているわけではありません。金鳥のホーロー看板は在りし日の美空ひばり。髪型が沖縄風なので昭和47年に制作されたテレビCM「蚊取り線香・沖縄篇」撮影時のスチールと思われる。

この年、札幌冬季オリンピックが開催され、私は川西市立多田小学校から多田中学校へと進学した。小学校の校舎は木造で、木製の廊下をワックス掛けするのが大変だった。生徒を横一列に並べてビンタを振るう暴力教師がいて、今どきならモンスターピアレンツに吊るし上げを食らいそうなありさまだった。中学校は坊主頭に制服制帽で、あまりに馬鹿らしくてアルベールカミュの「異邦人」なぞを寝転んで読みながら世の不条理を呪っていた。




サントリーレッドは1964年に発売されて、宇津井健出演のテレビCMが発売と同時にオンエアされた。一本500円でダブルサイズが900円。今やCM界の大御所である仲畑貴志は、宇津井健に「ヨッ!」と言わせるだけでコマーシャルが成立するならオレにだって作れるやんか、とコピーライターへの転進を決意した。



これも1964年発売。ペプシ系の炭酸飲料だったが、ファンタとの競合に勝てず、発売元がサントリーに変わるとともにいつしか市場から姿を消していた。高校時分までは飲んでいた記憶があるんだが。その容量で高校生を魅了した「チェリオ」ともどもセイシュンの記憶だなあ。




ヂャーですか。一体いつごろの看板なんだ。いまどきの炊飯器はそのまま保温機能があるけれど、昭和30年代から50年代まで、炊飯器は文字通りコメを炊くだけの機械であった。ゆとりある家庭では、ご飯を保温ジャーにうつしていたらしい。保温ができるお櫃だったわけである。私の生家ではこんなブルジョアなものはなく、ご飯は炊きたてか冷やごはんかの二極構造であった。「サザエさん」の家にはなぜか電気式の保温ジャーがあって、羨ましかった記憶がある。そういえば、舟さんもサザエさんも経済的にはいつも汲々としていたのに、テレビアニメの「サザエさん」のうちにはなぜか最新の家電製品がありましたねえ。



このなつかしき天井据付扇風機。熱気をかき回すだけであまり冷却効果はなかったけれど、旧国鉄の車両にも、街の食堂にもこれはゆるやかに旋回していた。この右奥が座敷になっていて、ざっと30畳くらいはあろうかと。座敷の奥には昭和40年代製とおぼしき東芝のキャビネット型「カラーテレビ」が鎮座しているのだけれど、ブラウン管は取り払われており、その中に液晶テレビが仕込んであって地デジ放送をながしていた。店主には相当の屈託があるようだ。




ピンクレディーなんて、平成生まれは知らんやろうなあ。当時は学年別学習雑誌なんてものがありまして、「中学一年コース」とか「中一時代」を新入学時に買うと鉱石ラジオとか、万年筆の付録がついてきた。私が中学に入ったときの「中一時代」の付録は、私の記憶が正しければオレンジの表紙が付いた英和辞典で、恐るべきことにたとえばhappyと引くと「ハッピー・幸せ」などとカタカナ発音が併記されていた。どうみてもこれから英語を学ぼうとする人間にマイナスとしか思えない表記で、旺文社と言うのは大概な出版社だなあとガキながら感じたことを思い出す。あれはひどい辞書だった。もし記憶違いで他からの頂きものだったら、旺文社さんごめんなさい。



天地真理さんも一時代をつくった女性でした。1971年に堺雅章の「隣のマリちゃん」でデビューしていらい1997年まではシンデレラストーリーの王道を行っていたのに。今ではたまにテレビでお見かけしても「見なきゃよかった」と肌に粟がたつ有様である。生者必衰のことわりをあらわす。



由美かおるさんって若い頃はほんとに見事な脚線美だったんですねえ。故人の水原弘とともにかつての街道沿いホーロー看板の立役者だった。由美かおるさんは1950年生まれだから私のちょうど10歳年上か。還暦ともなればさすがに入浴シーンとはいかないのだろうなあ。今でも充分にきれいだと思うんだけど。彼女は芸能界でも珍しい兵庫県川西市出身で郷里のヒロインである。



まだまだ昭和の不思議グッズ満載の「日本海食堂」なのだけれど、段々に混雑してきて写真撮影どころでなくなったのでこの日はこれまでにして昼食をしたためてから帰社した。ガラスケースにたくさんおかずが並んでいたので、肉じゃが・カボチャ煮つけ・ホウレン草と切干大根の酢のもの・豚汁にご飯というバランスのとれたメニューにしたのだけれど、甘辛の味付けがはっきりしすぎていて、関西人にはちょっと厳しい味付けだった。同行の仲間は、二人がオムライスでもう一人は「かつ丼に味噌ラーメン」なる過激な組み合わせを発注していた。食べっぷりから察するに、カツ丼が最良の選択で、僅差にてオムライスだったような。今度訪れる機会があれば、私はチキンライスにしたい。ちなみに上記の写真に後姿にもたっぷりと肉感あふれているのが、大盛のカツ丼に味噌ラーメンまで平らげて、さらに味噌汁まで要求した我が社随一のパソコンおたくの甘木君である。



甘木君が見入って動かなかった、この日絶景の立山連峰。



市内中央部に戻って見れば桜が満開で、奇怪至極の富山市役所までがこんな風景になっていた。
こんな青空は一体にいつ頃以来なんだろう。長すぎた冬の終焉か。

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