南山壽
世の中に 人の来るこそ うるさけれ とは言ふものの お前ではなし 蜀山人
世の中に 人の来るこそ 楽しけれ とは言ふものの お前ではなし 内田百閒
この週末は越中の地に来客が相次いだ。めでたいことである。客人を迎えるのは楽しい。もちろん、相手にもよるのであって人によっては玄関口で「何の御用でござんすか?何ざんす?」という仕儀ともなる。これを扁額に水茎のあとも麗しく掲げたのが内田百閒宅の玄関で、「南山壽」としるされていた。別名を百鬼園。退役陸軍大将ファン・ジャリバアと号したこともある。猫と借金と鉄道を諧謔こめて随筆に仕上げての手腕は空前にして絶後か。
「南山壽」には別の意味もあって、長安の都に接してそびえる南山の巌が永久に崩れないがごとく、永遠に朽ちず繁栄を続けることも表している。聖寿無彊。
ところで百閒の狂歌は「もとうた」が蜀山人のものである。大田南畝(蜀山人)は寛政二年三月三日新暦でいうと1749年4月19日すなはち本日が誕生日となる。生誕262年。19歳で狂歌師として江戸にデビューしたが齢50の頃、寛政の改革が行われた時分に、
世の中に 蚊ほどうるさき ものはなし 文武と言ひて 夜も寝られず
なる狂歌がはやり、作者と目された南畝は江戸に居づらくなって、勤務先を大阪に求めて大坂銅座へと赴く。当時銅の別名を蜀山居士といったことから大阪以降は「蜀山人」と号した。後世の研究者によるとどうやらこの歌の作者は別人物らしいのだが、山東京伝との間柄もあって賢明な南畝は上方へと難を避けたというところだろうか。私も先月で50歳となったのだが、何を避けて越中の地に隠棲しているのやら。夫子、如何なる騒擾を看過せんとするや。
ところで先日神田の古書店で狂歌本を贖って以来、ちょっとしたマイブームである。せっかくの機会だから蜀山人の作品をいくつか。
いかほどの 洗濯なれば かぐ山で 衣ほすてふ 持統天皇
もとうたが小倉百人一首にも所収の、ご存じ、
春過ぎて 夏来たるらし しろたへの 衣ほすてふ 天の香具山 (持統天皇)
また、私自身を評したごとき、
世の中に 酒と色とが かたきなり どうぞ敵(かたき)に めぐり逢ひたい
そろそろ初ガツオの季節だけれど、
鎌倉の 海よりいでし はつ鰹 みなむさし野の はらにこそ入れ
などみな楽しいけれど、辞世のうたがさすがに洒落ていて、
今までは 人のことだと 思ふだに 俺が死ぬとは こいつはたまらん
結構正直な人だったのである。文政6年4月6日(1823年5月16日)没。享年74歳。統計にもよるけれど、おおむね男子の平均寿命が36歳程度であった時代にあってはかなりの長寿を全うしたと言える。内田百閒も昭和46年に82歳で大往生しているから、明治生まれにしては長命で、摩阿陀会のメンバーは大変だったと思う。長生きをしたければ諧謔を忘れるな、ということか。
世の中に 人の来るこそ 楽しけれ とは言ふものの お前ではなし 内田百閒
百閒こと百鬼園内田栄造先生、頑固偏屈・無愛想・我侭
「南山壽」には別の意味もあって、長安の都に接してそびえる南山の巌が永久に崩れないがごとく、永遠に朽ちず繁栄を続けることも表している。聖寿無彊。
「なんざんす」と読む
ところで百閒の狂歌は「もとうた」が蜀山人のものである。大田南畝(蜀山人)は寛政二年三月三日新暦でいうと1749年4月19日すなはち本日が誕生日となる。生誕262年。19歳で狂歌師として江戸にデビューしたが齢50の頃、寛政の改革が行われた時分に、
世の中に 蚊ほどうるさき ものはなし 文武と言ひて 夜も寝られず
なる狂歌がはやり、作者と目された南畝は江戸に居づらくなって、勤務先を大阪に求めて大坂銅座へと赴く。当時銅の別名を蜀山居士といったことから大阪以降は「蜀山人」と号した。後世の研究者によるとどうやらこの歌の作者は別人物らしいのだが、山東京伝との間柄もあって賢明な南畝は上方へと難を避けたというところだろうか。私も先月で50歳となったのだが、何を避けて越中の地に隠棲しているのやら。夫子、如何なる騒擾を看過せんとするや。
蜀山人の書
いかほどの 洗濯なれば かぐ山で 衣ほすてふ 持統天皇
もとうたが小倉百人一首にも所収の、ご存じ、
春過ぎて 夏来たるらし しろたへの 衣ほすてふ 天の香具山 (持統天皇)
また、私自身を評したごとき、
世の中に 酒と色とが かたきなり どうぞ敵(かたき)に めぐり逢ひたい
そろそろ初ガツオの季節だけれど、
鎌倉の 海よりいでし はつ鰹 みなむさし野の はらにこそ入れ
などみな楽しいけれど、辞世のうたがさすがに洒落ていて、
今までは 人のことだと 思ふだに 俺が死ぬとは こいつはたまらん
結構正直な人だったのである。文政6年4月6日(1823年5月16日)没。享年74歳。統計にもよるけれど、おおむね男子の平均寿命が36歳程度であった時代にあってはかなりの長寿を全うしたと言える。内田百閒も昭和46年に82歳で大往生しているから、明治生まれにしては長命で、摩阿陀会のメンバーは大変だったと思う。長生きをしたければ諧謔を忘れるな、ということか。
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