鎮魂 富山大空襲 

66年前、昭和20年の8月1日深夜、米国陸軍航空隊第20師団は174機のB29でもって富山を襲った。明けて8月2日が彼らの陸軍航空隊創立38年の記念日であり、前祝いとして富山市民は業火に焼かれたのである。なべて戦争は狂気だが、すでに勝利が確定しているなかでの一般市民虐殺は私には発想そのものが理解し難い。私の悟性認識にそのようなカテゴリーは存在しない。


これは米軍が事前に空襲を予告したビラである。8月1日夜の空襲予定都市が連記されている。深夜いったん空襲警報が鳴り、富山市民はあらかじめ決められた退避場所に避難した。しかしB29の編隊は爆弾を投下することなく、上空を飛び去って行った。安堵した市民が家に戻り眠りについた頃に、ふたたび爆撃機の群れがやってきた。先ほどの通過は長岡に向かった一群であった。24時36分、運命の第1弾が投下された。


敵国に対する無差別戦略爆撃を持論とした、カーチス・E・ルメイは、陸軍航空隊が空軍に改組されるにあたって戦略空軍参謀職を狙っていたらしい。日本の敗戦が確定的になってからも続いた米軍の焦土爆撃が、たった一人の男の出世のために行われたことがまことに真実であるならば。神の名さえ借りれば何をしてもいいということなのか。


上空から撮影された夜間空襲で燃え上がる市街地(場所不明)。当夜の富山も同様であったのであろう。174機の大編隊はまず風上にあたる五福エリアに焼夷弾を投下した。さらに市街を円周状に炎上させて市民の逃げ口を奪い、約二時間、26時27分に最後の1弾を投下するまで街を焼き続けた。


市内の主だった建物で焼失を免れたのは富山県庁、北陸電力本社(当時)、大和百貨店の3つだけだったとされている。写真は戦後の大和百貨店。今このビルは西町再開発のために取り壊しを待っている。空襲から70年後の2015年、北陸新幹線開通にあわせて富山第一銀行本店として生まれ変わる。


旧北陸電力本社(現・電気ビル)。このビルの近くを流れる松川は、空襲による死者でいっぱいであったという。死者2727名。負傷者7900名。被災109592世帯。焼失家屋24915戸。市内の焼失率99.5%で、焼失・被災した中には後のドラマプロデューサーにして小説家の久世光彦も含まれている。彼のエッセーに書かれている空襲の風景は凄絶であった。



越中に春を告げる「全日本チンドンコンクールや、まさに本日8月1日に神通川で開催される「納涼花火」の二つの祭りは、大空襲からの復興や死者への鎮魂から始まった行事である。富山市に歴史的建造物がなく、歴史的行事もないのは歴史がもつ持続性が66年前のこの日に断ち切られてしまっているからなのである。

今日は市内のいずこかから花火を見上げて、鎮魂の意をこめて黙祷しよう。そして、壊滅的被害で同じように「継続」が断ち切られつつある、このたびの大災害の被害にあわれた方々のためにも、ささやかながら祈りをささげたいとおもう。

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