河北新報のいちばん長い日

震災から一年が過ぎた。地震のないことでは日本一とも言われる富山県に住んで、普通の生活をし、テレビのバラエティ番組なんかみているともう震災は過去の話みたいな気分にもなってくる。でも注意深くメディアを観察してみると、復興はまだ全然進んでいないし、がれき処理の問題も止まったまんまだ。




河北新報は仙台の新聞社で、昨年3月11日にはマグニチュード9の激震により、新聞のコンピューター製版ができなくなってしまった。しかし友好紙である新潟日報の協力を得て、なんとか8ページ立ての朝刊を印刷することができた。電気もない避難所ではテレビもなくラジオの電池は尽き、何の情報もない被災者が新聞を待っていた。張り出された河北新報を食い入るように見つめる人々。親は、子は、妻は、夫はどこにいるのか。地元の被害規模はどうなのか。

「河北新報のいちばん長い日」は、困難な状況のなかで自らも被災者である河北新報の社員たちが、一度の休刊もなく新聞を出し続けたドキュメントである。読んでいて花粉症のせいではない涙がにじんできて困った。



気仙沼総局の菊池総局長は津波からかろうじて生き延びた。停電で薄暗い室内で、服を着込めるだけ着込んで、パソコンも動かないからコピー用紙の裏に手書きで原稿を書いた。



「白々と悪夢の夜は明けた。湾内の空を赤々と染めた火柱は消えていたが、太陽の下にその悪夢の景色はやはりあった。
一つの街の区画がそっくり焼け焦げていた。それがかつてなにであったか不明のがれきの山が、車道をふさいでいた。乗用車や保冷車は好き放題に転がり、土砂に埋もれ、川に突っ込んでいた。
美しい景色と水産のまち・気仙沼市は、今まで誰も見たことのない、形容しがたい無惨な姿をさらしていた。
その景色を見ることができたのは、むしろ幸運だったのかもしれない。
震災当日の11日、襲い来る津波に胸までつかり、死にかけた。気仙沼総局に避難してきた人たちに食料をとコンビニに走ったのが失敗だった。
水は白い波頭を見せ、道沿いにひたひたと迫ってきた。近くのビルの2階ベランダに駆け上がったが、勢いは一向に衰えない。あっという間に5、6メートル流された。フェンスによじ上り、柱にしがみついた。水かさは増す、死を覚悟した。
次の瞬間、濁流はすさまじい音を立て、ビルのシャッターを突き破り、建物の中になだれこんだ。一気に水位が下がった。驚いて出てきた家の人が3階の自室に招き入れてくれた。ぬれた服の着替えを借り食事までごちそうになった。人の情けの温かさを今更ながら知った。「支え合い」。現実感の乏しい地獄絵図の世界で頼れるのはそこに確かにいる人たちだ。12日、市の避難所に出向くと、行方不明者の安否を気遣うメモが壁一杯に貼られていた。
「待ってて、生きてる!」「これを見たらすぐ来て!」1枚1枚を見ていると、涙がこみ上げる。
余震と火災がやまないけれど、悪夢の日ではない、長い復興の道に踏み出した最初の日なのだろう」

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