「鉄分」豊富に上越路

東京出張にはふたつのルートがある。富山空港から空路羽田へは日に6便が往復する。もうひとつは陸路というよりか鉄路。富山から直江津を経由して第3セクターほくほく線で越後湯沢へ、上越新幹線に乗り換えて東京駅に達する。日本海の波打ち際を走る北陸本線の多雨豪雪といった湿潤度の高い風景と、高崎付近の上州は空っ風が吹く乾燥感、この乾湿がつくるギャップが面白くてもっぱら鉄路を愛用している。

上越新幹線 Maxとき号

経費的要因で言うなら、空路往復が45000円に対して鉄路往復は21000円にすぎない。では飛行機は空席だらけかと言えば結構混雑をしているらしい。今日など連休の内とは言え終日満席である。家とクルマ以外に関しては諸事倹約家の富山県人の行動とは思えない。もっともたとえ同料金であったとしても私は鉄路にするけれどね。

じつのところ、私はいささか鉄分含有量が常人より濃いのである。ところで、鉄分とは個人に於ける鉄道愛好度を示す指数のこと。これが75%を越えると「鉄ちゃん・鉄男くん・鉄子さん」と呼ばれるようになる。鉄道に乗るのが好きなのが「乗り鉄」、写真を撮るのが好きなのが「撮り鉄」、駅弁など関連の食い物が好きなのが「喰い鉄」と呼ばれる。「鉄」は鉄道ファンそのものを指す。私の場合鉄分は50%程度なので「鉄ちゃん」まではいかない。エッセイストの酒井順子は自らを「鉄女」と呼称しているけれど、それじゃあまるでマーガレット・サッチャーみたいなので私は「鉄子」の方が好きである。

鉄分の濃い人間にとって、ぼんやりと窓外を流れる風景を眺める時間こそ至福なんですね。ただ会社の出張では時間が優先されるので、どうしても新幹線や特急を利用することになる。それらはあまりなスピードですっ飛ばすから、これはという景色が瞬時に視界から消えていく。

立山を背に疾走する「はくたか」号


さてこの大型連休に突入して思へらく、北陸本線の絶景、親不知(おやしらず)あたりの風景を鑑賞するためにちょいと普通電車に乗ってみようかと。どこで下車しても良いけれど、どうせなら北陸の要衝、筒石・能生・黒石の三漁港にはさまれた直江津をディスティネーションにして、旅の終わりを上越市が誇る名割烹「軍ちゃん」で銘酒八海山と日本海の海の幸で締めるのも良からん。



さて乗車したのは富山駅13時18分発直江津行の普通列車である。これから延々と「鉄ばなし」が続くので、「鉄」以外の方々には時間の無駄であると予告しておく。でもまあ、こんなブログを読んでいるのはよほどの暇人か奇人でしょうからお急ぎでない方はぜひお付き合い下さい。

車両横にはモハ418-6と記載されている。これはもともと国鉄が1967年に導入を開始した、世界初の本格的電車寝台特急581系「月光」型のなれの果てである。たとえば、大阪万博の頃にレコード大賞新人賞まで受賞して一世を風靡したアイドル歌手が、変わり果てた風貌で、五十路を越えようとする歳にもなって、いまだに裏寂しい北陸の温泉旅館をドサ廻りをしているようなものである。


1970年頃の寝台特急「月光」号

世界的に見て、寝台車は列車形式(機関車が客者を牽引する)のが大勢である。電車や気動車など動力分散型の車両では、床下に電動機・ディーゼル機関を搭載することになって騒音の問題が発生する。しかし急勾配の多い日本でしかもせっかちな国民性ゆえに高速移動が眼目なため、類を見ない電車寝台特急が開発され、列島を東西南北疾駆することになった。

おまけに1960年代後半の高度成長期の設計である。快適性より利便性と大量輸送が優先されて、昼間特急も兼業できるように椅子は固定式クロスシートになっている。また寝台はすべてB寝台の三段型となった。おかげで車高は車両限界ギリギリの高さとなり、断面は山食パンのごとくとなった。

平常は10両編成であったこの優等列車を3両単位にぶった切って、ローカル専用に改造したのが418~419系で、国鉄盛岡工場にて裁断再加工されたのちに九州・広島・金沢へと送られた。


ブツ切りの断面に運転台を新設


1982年のダイヤ改正にあたり、広島地区において「長大編成不等時間隔・列車型」をやめて「短編成等時間隔・電車型」を導入したところ利用者から相当に好評を博した。順次全国地方都市においても同様のダイヤグラムを取り入れるべく編成案を組んでみたものの、交流用・交直両用の電車車両が需要に追いつかない事態を招いてしまった。とはいえ累積債務の権化であった当時の国鉄に新造車両を生産する余力があるわけでなく。


かつての面影が残る先頭車両


いっぽう、山陽新幹線・東北新幹線の開通で、寝台特急はほとんど廃止されてしまい、新大阪~博多の「月光」・上野~青森の「はくつる」「ゆうづる」「はつかり」などが惜しまれながら次々と引退した。1984年には121両もの余剰車両が車庫を占拠する事態となった。最高速度120キロを誇るスピードランナーも働き場を失ったのである。





その車内。天井部分に2・3段の寝台が格納されたままである。往時はこの寝台の組み立てと格納に多大の手間を要して、転換要員の手配が利かずに列車の遅延・運休が頻発したという。また閑散期には勝手知ったる鉄道ファンが、自分で下段の寝台を引き出してごろ寝スタイルで旅行する姿もあったとか。ちょいと羨ましくなくもない。ことし2月の新聞で、20数年ぶりに格納されっぱなしの寝台が引き出される写真が出ていたのでちょいと引用させていただく。



さて国鉄は余剰車両となった581系を、ローカル線普通電車用に改造することで交流・交直両用電車の需要にこたえることとした。もとが特急用車両なので普通電車としては快適性抜群である。通路幅が狭く、立ち席が少ないので大量輸送には向かないことも使用途が過疎地対策なので問題にならない。駅間距離が短くなり、最高速度より加速性が重視される点も、廃車が進む103系(総武線・常磐線・大阪環状線などで1957~69に使用)のギア比が低い歯車を外してきて換装した。最高速度は100キロに落ちたけれど。

また、長距離運用のために交流区間~直流区間をまたいで運転する関係で、コストがかかる上に重さとスペースを必要とする整流器も元から装備していたことが北陸地区では幸いした。新潟・滋賀には直流区間が存在するので短距離運用といえども交直両用が必須とされるのである。




そんなこんな、鉄分高いことを想いつつ電車は走る。糸魚川駅である。後方に見える峻険はたぶん乗鞍岳。ここ糸魚川と静岡を結ぶ線が中央構造体・フォッサマグナであり、日本の東西はここで分別される。日清食品「きつねどん兵衛」のスープもここから西は昆布ベースの、東は鰹ベースの味にわかれる。糸魚川の町中では、仕入先の問屋によって東西の味が混在しているに相違あるまい。いちど実地検分してみたいものである。




親不知の駅。飛騨山脈が日本海に没していく断崖の地。親子でこの難所を越えるにあたっては親は子を、子は親を省みるゆとりを持てないことで命名されたとも言われる。ほかに由来多数。市振駅側を親不知、青海駅側を子不知と呼ぶ。


親不知の絶景


電車はさらに東へ向かう。能生駅を通過して、全長11,353メートルの頸城トンネルへ。このトンネルの半ばに全国でも珍しいトンネル内地下駅が存在する。特急「はくたか」なんぞでは駅の実在にすら気がつかぬ猛スピードで走り去ってしまう。





1969年北陸本線全線複線電化にともなって新設された筒石駅。地表から潜ること176メートルの高低差がありながら、この駅にはエスカレーターもエレベーターもない。利用者はすべからく290段の階段を昇降しなければならないのである。特急列車通過時など大変な風圧にさらされるので、駅員の監視が不可欠であり、5名の駅員が24時間駐在する。駅の運営はJR西日本メンテックに委嘱されている。普通列車停車のたびに駅員は地上から階段を下りてくることになっている。そのうち実業団陸上競技に西日本メンテックからアスリートが輩出されるかもしれない。

一日の昇降客数は平均60名でほとんどが学生とか。しかしこれを無駄と言ってはいけない。公共交通とはこういうものと理解して、整備補修をきちんとするのが正しい国家経営のありかたである。



糸魚川から直江津にかけて、海岸べりにはかような民宿と海水浴場が連なっている。すぐ南には海なし県の長野があり、群馬県だって隣接している。上越の地は交通の要衝なのである。

直江津で見かけた「やおき食堂」次回訪問を期す

直江津では、上越市営水族館でちょっと遊んだ。「軍ちゃん」開店までの時間つぶしである。夕刻にもかかわらず家族連れで混雑していた。子供科学ホールなぞと言う施設もあって「佐川清・寄附」とあった。佐川急便の創業者は上越出身なのだった。すっかり京都人かと誤解していた。





豪雪地帯の象徴「雁木」づくりの商店街

1945年2月26日に、現上越市にある気象庁高田測候所は積雪377センチを観測した。未だにこの観測値は更新されていない。雪原となった高田には「この下に高田あり」と札が立てられたとか。また近隣の金谷山には1911年にレルヒ少佐が訪れて、わが国にはじめてスキーを伝授した。これを厳寒地の装備として導入したプロペラ髭で有名な陸軍中将長岡外史も上越ゆかりの人であった。



高田の豪雪


「軍ちゃん」の料理は地物の造り盛り合わせも、自家製ベーコンも、白身魚の桜蒸しもいずれ劣らぬ仕上がりで、八海山の搾りたて原酒と最高の相性だった。さらに勧められた地酒の「能鷹」が、立山をもう少しマイルドにした感じでなかなかであった。




なにより素晴らしかったのが「ガシラ」の煮付けであって、濃厚にして淡白。箸をはじき返す身の新しさに驚嘆しつつ能鷹を重ねることになった。ちょいとした問題はその価格で、半尾つけの一皿が3600円というのは、味の点では納得がいったけどちょっと、ねえ。アラカルトでいい気になって注文を重ねると結構な値段になりました。もっとも、席のほとんどを埋めていた地元の人間は、定食セットに好みの皿を追加発注していたから、それがリーズナブルなのかもしれない。

じゅうぶんに気持ちよくなって帰路についた。そうなると速いが一番なので「はくたか」に乗車。暗闇の中をトンネルに突入して、一瞬の光として筒石駅が過ぎ去っていった。


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