Les jours sen vont je demeure. 日々は過ぎ去り私は残る。

藤田まことを追悼したい。
1960年生まれの私が物心がついたころ、視聴率60%を誇った「てなもんや三度傘はすでに茶の間で存在感を持っていた。保育園とか幼稚園にかよう道すがらに「当たり前田のクラッカー」といいながらその辺に生えている篠竹を抜いてあんかけの時次郎を真似していた。はずである。

大阪万博が近づいて、来るべき21世紀の世界を想うころは、時代劇やそれに類するコントはもちろん、演歌でさえ嫌悪の対象だった。未来になれば日本もアメリカのような国になれるんじゃないかと懸想していたのである。あのころアメリカは夢だった。人が入れるような大型冷蔵庫、一年中快適な室温が保たれるエアコンディション、一家に2台以上のクルマ、広くて大きな暖炉付きの家に住むファミリーには、けっして封建的でなくものわかりのいい父親と母親。身の回りにあるあらゆる日本的なるものと東洋的なものが嫌悪の対象だった。貧しさの象徴だった。

第二次性徴期をむかえるころ、べトコンに勝てないアメリカに気がつくころ、テレビの「台風エミリー」とか「いなかっぺ百万長者」とか「奥様は魔女」に出てくるアメリカの家族は、現実にはそんなに甘くて放任的なものではないことを知るようになった。白い歯をむき出しにして何でも正しいことは偉いことのように決め付ける単純な世間もどうしたもんかなと思えるようになった。

そのころ、藤田まこともブラウン管からしばし離れていたようである。

オモテの論理だけでは世の中は成立しづらいし、もしもそんな公正明大な世界があるのであればあまりにファジーな複雑系の権化である人間は息苦しいに相違ない。大声では言えないけれど隠然たる権力を持つ人間が世の中を仕切っていて、実は法の論理を越えてその実力者は君臨できることを立花隆なる人物は教えてくれた。同時に、後ろ暗いことで権力とカネを作り出す人間には司法も警察も検察も無力であって、相変わらず「ガイアツ」などのスペシャルフォースが働かないと汚れた権力構造は崩せないことも。ピーナツとかね。

梅安先生が主人公の「必殺」シリーズはいつしか中村主水のものとなった。みみっちい権力や私怨に対するに、ストイックな鍼医者の主人公よりクラーク・ケント以上に日常にボケ味があるムコ殿が支持を得たのである。家庭にあって種無しスイカと蔑称され、職場にあって昼行灯と酷評される主水が殺しの現場に向かうとき、突如舞台は暗転しムービーカメラの常識を覆す逆光の世界に入る。
製作担当の朝日放送山内久司は闇の価値を知る人であった。幼少期に影絵の芸術性とスクリーンに影が焼き付けられる凄惨さをおぼえた人なのかもしれない。



「必殺」シリーズの全盛期はだから立花隆の文藝春秋誌における興味深いレポート掲載から、その主人公の容疑確定と拘引、結審までの長い期間にわたった。

まことにあっさりした国民性ゆえに強すぎる悪のフォースがその光陰を水平線の下に沈めると同じタイミングで「必殺」の世間的支持も減少していったようである。その断末期には江戸時代奇想兵器展覧会みたいになっていた。

悪が小粒になるとともに藤田まことはまたしばらくブラウン管の主人公から姿を消す。

円高不況を乗り越えた昭和末世の日本はにおいて、億単位のカネは天上人の話ではなく庶民の不動産取引でもあまねく発生しかねない事態が出来した。バブルの到来である。隣の人間との共生などとんでもなく、うまくチャンスを捉えた人間だけにジャパニーズドリームが降臨した。

ムコ殿イメージから脱却を図る藤田まことは、自らの原点である舞台に着目していたようである。本格俳優から喜劇俳優へ、更に国民的名優となった森繁久弥の跡目を狙ったのかもしれない。

しかし夫人のビジネスが巨億の負債を築いてしまった。森繁のごとく仙人ぐらしが不可能になった彼は再びブラウン管に復帰する。バブルが残した傷跡に毎日オキシフルをかけられているおもいの日本人に、「人を信じる」「犯罪者にも一分の理」といわんばかりの「はぐれ刑事」シリーズはこっそりと支持されたようである。安浦刑事のネクタイをはずした背広姿は、人生の明暗を峻別する分水嶺がどこにでも誰にでもあることを暗示している。刑事事件で容疑者となった人間は自殺することも許されないから、ネクタイベルトの着用を許されないのである。

21世紀になる頃から、省エネと言って夏場にネクタイを外す事が当たり前のようになった。国民の倫理観念低下とシンクロしているように私には感じられる。やせ我慢を賞揚しない社会は規律無き社会である。人間はいつ何時にでも畜生道に陥ることが出来るかなしい生きものなのだ。

藤田まことは、その頃に再び時代劇に戻りかつて原型を破壊した「必殺」シリーズの詫びを泉下の池波正太郎に果たすかのごとく原作に忠実な「剣客商売」秋山小兵衛を演じた。



広い世間での人間相互がもつ信頼関係が崩壊し、江戸時代の身分制社会のごとく格差社会とあきれるばかりの世襲制の息苦しさの中で、平民で江戸市民でありながら剣客なる異能ゆえに格差を飛び越えて活躍できる秋山父子は、カタルシス解放にもってこいのモデルである。

我が50年の人生で、明滅を繰り返しながらその存在感をいつも同時代的に感じさせてくれていた藤田まことが人生の幕を閉じたことが、こんなに衝撃になるとは予感だにしなかった。訃報以来の重苦しい気分は増すばかり。喪失感というものなんだろうか。今夜は時代劇劇場の剣客商売と、はぐれ刑事最終版で、どうしても涙腺を刺激されて困ってしまった。

時代の平仄にあくまで誠実な演技でこたえた故人にこころからご冥福を祈念したい。

コメント

  1. 甘きであります!2010年2月23日 0:00

    小生が中学生だったころ、毎週水曜の夜になると珍しく家族が集まる時がありました。

    それがはぐれ刑事純情派。

    この時間になると、何も言わずに家族が茶の間に集まり黙ってテレビをみたものであります。

    そして、番組終了後にうちの親父殿が、そのドラマの展開について語るのがお約束。
    もちろん、BGMに堀内孝雄の渋い歌声とともに。

    こころからご冥福をお祈りいたします。

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