反省はいつもささやかに。

江戸明和の頃の人、鈴木牧之は越後湯沢の商人にして万能の文芸人であった。和漢の典籍に通じるだけでなく、書画をよくし俳諧を好んだ。商売が質屋と越後縮であったことからしばしば江戸に赴き、山東京伝・曲亭馬琴・式亭三馬・蜀山人など名だたる文人と交わりを結んでいた。

牧之が世に残した著作としては「北越雪譜」が知られる。雪深き越後魚沼の地を「寒国」として、その民俗や天変の不可思議を、冷静かつ分析的に叙した文章と絵画は、200年も昔に雪国の人々が暮らすさまを考現学的に著していて貴重である。

文は博識強覧を誇り、描写は具体性を重んじ、挿画の細かさは今和次郎もかくやと思われるほどに精密をきわめる。肉眼で分類表記した雪の結晶の数々などファナティックなまでの情熱を感じてしまう。けれど衒学的なものでは決してなく、俳諧をよくした人らしい奇をてらわないユーモアが散見して知性のゆとりを響かせている。(もっとも挿画や冗長気味の文章ははのちに山東京伝の息子京水が手を入れたとされているけれど)


              

        
「雪の深浅」
左伝に隠公8年平地尺に盈るを大雪と見えたるは其国暖地なれば也。唐の韓愈が雪を豊年の嘉瑞といひしも暖国の論也。されど唐土にも寒国は8月雪降ること五雑組に見えたり。暖国の雪一尺以下ならば山川村里立地(たちどころ)に銀世界をなし、雪の飄々煽々たるを観て花に論え(たとえ)玉に比べ、勝望美景を愛し、酒食音律の楽を添へ、画に写し詞につらねて称翫するは和漢古今の通例なれども、是雪の浅き国の楽み也。我越後のごとく年毎に幾丈の雪を視ば何の楽き事かあらん。雪の為に力を尽くし財を費やし千辛万苦する事、下に説く所を視ておもひはかるべし。

浅学ながら口語訳してみたい。

「雪の深いの浅いの」

孔子が書いた歴史書「左伝」によるならば、魯の隠公が治世して8年目に魯では平地で24センチの雪が積もったことを大雪と言っている。そこが「暖国」だからそんなことで騒ぐのだ。
唐の韓愈(唐宋八家の名文家)は雪が降ると(翌年は)豊作になるきざしだなどと言っておるが、これも「暖国」の論理である。ただ中国にも8月に雪が降るところがあると明代に謝在杭の書いた随筆「五雑組」には著されている。
「暖国」の雪が一尺(約30センチ)ほどでも積もってしまえば、山川・村里を問わずたちどころに銀世界となって皆が驚く。そうすると暖国のひとびとは雪がひょうひょうと降り積もるところを鑑賞しながら、雪花などといって花にたとえてみたり、玉石の輝きにたとえてみたり。
またその有様を雪景色などといって、眺望を楽しんだり、あまつさえも酒やご馳走を持ち込んで放歌高吟、中にはその風景を絵画に描いたり詩文にしたててみたり。
和漢の文人が行なうところ皆同じようなものである。これは雪がめったに降らない国の連中の気軽な楽しみにしか過ぎんのだ。
振り返ってわれらが越後の国を見てみるがいい。毎年襲いかかる3メートル単位の積雪を。これを知る・見る・体験することがあれば、雪なんか何の楽しみであるものか。この雪のためにわれらは除雪に背骨がきしむほどの労働をなし、個人の金銭はもとより税金も多額に投入せざるを得ないのだ。まったく迷惑にして苦労のほどいかばかりであることか。口舌に尽くしたいものがあるのだけれど敢えて記述してみたい。各位には以下の文面書画をご覧頂きたいものである。


この数ヶ月、この場を借りて太平洋サンベルト地帯出身者として、まこと気楽に「雪」を楽しんでしまいました。写真を撮ったり、かように駄文を弄したり。泉下の牧之先生だけならず、雪国に生活するすべてのひとびとにお詫び申し上げる。

でもね。山東京伝父子でさえ、牧之の招きで越後に訪れること50日というじゃないですか。それだけのあいだあの風狂な人間が飽きもせず滞在したほど、暖国の人間にとって寒国の風俗民俗は面白いのですよ。お許しいただけるなら、この越中通信録はこの期間一部を「越中雪譜」として、馴染み無き世界を紹介していきたいと思うんですけれど。

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