昔の作文

パソコンの中を整理していたら、数年前に書いていた駄文が残っていた。
あくまでフィクションです。事実に似ていてもそれは偶然の一致ということで・・


 食物連鎖


 哲人テオフラトスの名著「人さまざま」を引くまでもなく、人間と言うやつは本当に統一性がない。食に関してもそうだ。

後輩の甘木君は同じものを際限なく食べることを無上の喜びとしている。炒飯をバケツに一杯とか、カレーの大盛りを三杯とか。黙々と摂取する姿には、仏教画で見る「餓鬼」を彷彿させるものがある。小顔でぽこんと腹が突き出ているところも似ている。いわゆる珍味とか佳肴には縁のない男で、接遇費がかからないのが良いところだ。甘木君の父君は誰でも知っている大企業の会長をしている。




さらにもうひとりの後輩、垂逸君は違うものを次々と平らげること出色である。焼肉店に行ったりすると躁狂状態を呈する。まあざっとメニューブックのほとんどを平らげてしまう。和食割烹でも同様。しかしながらラーメン屋やカレー屋ではからきし元気がない。

おまけに品数をそろえても、まずいものには手を出さない。勝手な男である。ちなみにこいつの父親は元アスリートで、あまりに有名なのでプロフィールを匂わせることも危険である。

 社長の息子でもなく大アスリートのセガレでもないが、板前職人にして料亭経営者の孫たる僕もどうやら変わった食性の持ち主であるらしい。なお、利己的遺伝子と食性の関係についてはR・ドーキンス博士の更なる研究を待たねばなるまい。

 僕の場合は「連続する食欲」の持ち主であって、気に入ったメニューがあれば飽きるまで連食してしまうのである。四半世紀ほども昔のことながら、就職活動の時期に会社訪問を繰り返しながら三十四日間昼食にカレーを食べ続けたことがあった。

ふとしたはずみで淀屋橋の喫茶店MJBにてカレーを頼んだのがきっかけで、やっぱり夏はカレーだなあと納得しながら翌日、翌々日、一週間と繰り返してしまった。二週間目くらいからは、昼時になると無意識のうちにカレーと対面している自分を見つけるようになった。さらに一月がたとうとする頃、自分がカレーのスプーンを掴むのではなく、スプーンのほうが自分を掴みにかかっている錯覚を覚えてしまった。

その後、稲荷寿司・吉野家の牛丼・天下一品のラーメン・駅前第一ビルB1のスタンド天丼など、さまざまな連食を繰り返してきた。天下一品を二週間続けたときは身体からスープのにおいが立ち上った気がした。吉牛は六晩連続で深夜に喫した。七晩めには泥酔してしまい、牛丼を意識する前に自宅で気絶して記録を更新できなかったのは残念なことだ。稲荷寿司は三週間続けた挙句にある日突然胃袋が拒否宣言を出して、爾後十二年ほど胃がどうしても受け付けなくなってしまった。好物転して天敵となる例である。

最近では焼肉の「テッチャン」がそうだ。タレのよくしみた白い肉片をじっくり炙りたてて、良い加減の一瞬に引き上げ、噛み切れそうで中々噛み切れないくにゅくにゅした独特の食感を愉しんでいる。これは焼き加減が勝負なので、人と一緒に行ってはいけない。


カウンター席でロースターを前に、ひときれひときれを惜しみつつ焼かねばならない。

 今日もそろそろ夕暮れ時である。天満駅前「焼肉・コトブキ」のカウンターも五夜連続となれば、客引きのおばちゃんもそろそろ瞠目してくれるだろうか。

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